6月1日  聖ユスチノ

聖ユスチノ
《私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。これはユダヤ人にはつまずき、異邦人には愚かなことです》
裁判官の前に立つユスチノ (ユスティヌス殉教録)

偶像崇拝の恥ずべき信奉者がはびこっていた時代のことである。町でも田舎でも、信仰あついキリスト者に対して不敬な布告が公示され、キリスト者は強制的に偶像崇拝を命じられた。聖徒たちは一斉に逮捕され、ローマの地方長官ルスティクスのもとに連行された。全員が法廷に出頭したとき、ルスティクス長官はユスチノに言った。「まず神々に服し、皇帝に従いなさい」。ユスチノ「だれも、私たちの主イエズス・キリストの戒めに従ったかどで非難されたり、処罰されたりすることはできません」。ルスティクス長官「おまえは、どんな学問に没頭しているのか」。ユスチノ「私は、あらゆる学問を次々と修めました。しかし、ついにキリスト者のまことの教義に傾倒することになりました。もっとも、この教義は誤りに惑わされているかたがたにはお気に召さないものでしょうが」。
「おまえは、そんな学問が気に入っているのか。あわれな奴め!」。 「いかにもそのとおり。私はキリスト者に従い、まことの教義に心酔しておりますから」。
「その教義とはどんなものなのか」。
「私たちはキリスト者の神を礼拝します。私たちは、この神が唯一であり、開びゃく以来、全宇宙の見えるもの、見えないものの創造主であることを信じます。神のしもべ、イエズス・キリストが主であることを信じます。イエズス-キリストは人類のもとに来られることを預言者たちによって告げられた救い主、尊い知識の師であられます。人間にすぎない私は、キリストの無限の神性をふさわしく語るには、余りにもちっぽけな者にすぎません。しかし、私が神の御子と申したかたに関する預言は実在します。預言者たちは、そのかたが人間のもとに来られることを告げ知らせたとき、いと高きところから霊感を受けたのです」。
ルスティクス長官は尋ねた。「おまえたちはどこで集合するのか」。 「それぞれが希望し、また可能な所に集まります。私たちがある一か所に集まるとお考えですか。とんでもない。キリスト者の神は、ある一か所に閉じこめられるかたではありません。この神は目には見えず、天地に満ちておられ、至る所で信者から礼拝され、たたえられておられるのです」。
「質問に答えよ。おまえたらは、いったいどこで集まるのか。おまえは弟子をどこに集めるのか」。
「私はテモテ浴場の近くの、マルティヌスとかいう人の上に住んでおり、二度目にローマに来てこのかた、ずっとそこに住んでいます。別の集会場を持った覚えはありません。だれでもそこに訪ねてくれた人には、私は真理の教えを伝えました」。
「では、おまえはキリスト者なのか」。
「そのとおり、私はキリスト者です」。
ルスティクス長官はカリトンに言う。「今度はカリトンだ。おまえもキリスト者か」。
「私は、神のみ旨によってキリスト者です」。
長官はユスチノに向き直って言う。「いいか、おまえは雄弁家と意言われているし、おまえ自身では、まことの教義を持つ、と思っている。むち打ちの刑を受けてから斬首されたら、おまえは、そのあと昇天すると確信しているのか」。
ユスチノ「もし、そのすべてに堪えられましたら、自分の住まいは天国にある、と信じます。そのように生き、死んだすべての者のために、神の報いが宇宙の終わりまで取っておかれることを私は知っています」。 「では、おまえは報いを受けるために天に昇ると想像しているのか」。 「想像しているのではありません。私はそう確信しているのです。その確証があるのです」。
「本題に戻って、さっさと片をつけよう。みんな近づいて、そろって神々に供えものをせよ」。
「気でも狂わなければ、だれが不敬行為のために信仰心を捨てるものですか」。
「従わない者は容赦なく処罰するぞ」。
「それこそ私たちの願うところです。救われるためにわが主イエズス・キリストゆえに苦しむのですから。それは、全世界が出頭しなければならない救い主の最も恐るべき法廷の前で、私たちを救い守ってくれるでしょう」。
他の殉教者たちも異口同音に叫んだ。
「あなたの思いどおりにしてください。私たちはキリスト者です。偶像などに供えものをしません」。
そこで、ルスティクスは判決を下した。
「神々を礼拝することを望まず、皇帝の命令に従おうとしなかった者たちには、法令によりむち打ち刑を下し、死刑に処すために連行する」。 殉教者たちは、神をほめたたえ、刑場に引かれていった。そこで彼らは斬首されて、私たちの救い主への信仰を宣言しながら殉教した。
いくにんかの信者が、私たちの主イエズス-キリストの恵みに支えられて、ひそかに彼らの遺体を引き取り、適当な場所に安置した。栄光は世々、イエズス・キリストに。アーメン。

祈願
神よ、あなたは殉教者ユスチノに、
十字架の愚かさを通して、
イエズス・キリストを知ることのすばらしさを教えられました。   聖人の取り次ぎに支えられて、
私たちが誤謬を退け、
不動の信仰に生きる者となりますように。

6月9日 聖エフレム

聖エフレム     あわれみの賛歌

(エフレムの賛歌)
あなたが私たちに与えてくださる宝は、ご自分にとってはどうしても私たちに分け与えなければならないものではありません。あなたにはただ一つの必要事しかありません。それは、あなたの善を身につけるために私たちが自己の意志をおゆだねし、あなたに耳を傾け、自分の心を広げることです。
あなたのすべてのみわざは、「すべてはきわめてよい」と仰せになったときにお口から出た知恵で飾られた冠で輝いています。あなたへの私たちの賛美も、あなたからいただいたものをおささげしているのです。
御子は私たちの栄光のために私たちの肉体を取られましたのに、私たちは、その同じ肉体において、御子を連行し、裁判にかけ、死刑に処してしまいました。
しかし、あなたの正義は私たちの自由を悪の手からあがなわれました。そしてこの自由は、創造主のご計画によって、広められ、私たちの勝利の輝きをいや増しました。私たちが神の国の飾りになれるようにと、神は私たちを燃える炉で苦しめたのち、まったく美しい状態に導いてくださるのです。
おお、すべての人に遣わされ、注がれたありれみよ!このあわれみは、あなたのうちにとどまっています。そして、私たちの主よ、あなたはすべての人をいつくしまれ、ご死去によって人々を出迎えに来られ、ご自分のあわれみの宝を人々に聞かれました。
私たちは、あなたの普遍の愛ゆえに万物においてあなたを礼拝します。
この世界に私たちを置き、世界内の万物を私たちに治めさせ、私たちには即りえないある時刻に世界から私たちを呼び戻されるあなたを礼拝します。
あなたに祈り求めることができるようにと、私たちの口にことばを授けられたあなたを、私たちは礼拝します。アダムは平和のうちに憩い、彼の子孫とともにあなたに歓呼の声をあげます。すべての人は、あなたの恵みをいただく者だからです。
風は水しぶきを上げるとき、あなたを賛美しています。大地は、ふところを開き、季節に実をもたらすとき、あなたをたたえています。海は波のとどろきによって主の支配を告げるとき、あなたをたたえています。木々は、風にそよぎ、花を咲かせ、実を結ぶとき、あなたをほめたたえています。さまざまの植物、いろいろの花は、潤いの雨と露にぬれるとき、あなたを祝して歌っています。あなたにいつくしまれた花々が集い、互いにすすめ合い、むつまじく声を合わせて、あなたをほめたたえますように。すべてが協力して、賛美の合唱をおささげしますように。
それゆえ私たちは、意志のすべてをあげてあなたに心を向けまし。う。また、あなたは、ご自分の充ち満ちたところから私たちにいくぶんかを注いでくださいますように。それは、あなたの真理が私たちを回心させ、こうして、あなたの賜物なしには賜物の与え主であられるあなたのみもとにたどり着けない私たちの弱さが消えうせるためです。

祈願
筆舌に尽くせない神よ、
聖エフレム助祭は、聖霊の息吹を受けて
救いの神秘の美しさをほめ歌い、
生涯をささげ、あなたに仕えました。
私たちの心にも同じ聖霊の息吹を注いでください。

6月21日 聖アロイジオ・ゴンザガ

聖アロイジオ・ゴンザガ

母への手紙
二十三歳のアロイジオ・ゴンザガが母に送った最後の手紙。ペスト患者を看護して感染した彼は、この十一日後、死去した。

聖霊の恵みと慰めがいつも母上にありますように。お手紙は、生きる者の国(天国)で神を永遠に賛美するために出発する用意のできた私が、まだこの死者の地に生きながらえているうちに届きました。今ごろはあの世への一歩を踏み出しているはず、と思っておりましたが、先日も申し上げたとおり、熱も下がり、幸いに主の昇天祭まで生きのびることができました。が、それ以来、風邪を引き、具合が悪くなってきました。それで私は、天父の慕うべき甘い抱擁に少しずつ近づいています。御父の胸に安心して永久に安らいたいと希望しながら。こうして、私について取りざたされたいろいろなことも、辻棲が合うことになりましょう。… 聖パウロが言うように、「愛は、泣く人とともに泣き、喜ぶ人とともに喜ぶようにさせる」ものでしたら、神がこの私に賜わる恵みのために、母上もひとしお、お喜びになると思います。主なる神が私をまことの幸いに導き、また、この幸いを失うことはない、と保証してくださるのですから。打ち明けて申し上げますが、私は、神のこのいつくしみという広大無辺の大海に沈み、その思いに浸っています。いつくしみ深い神は、つかの間の、軽い労苦ののちに、永遠の休息へと呼び、天の高みから最高の幸福へと招いてくださるのです。この幸福を探すことを私は余りにも怠ってきましたが、神のいつくしみは私の流したわずかな涙の報いを約束してくださいます。神のみ前で生きる者となり、この世では母上のためにしなかったことを、祈りによって天国でもっとよく果たそうとするこの私を死人と思ってお泣きになれば、神のいつくしみに逆らうことになります。ですから、母上には、この神の限りないいつくしみに逆らうことのないようお気をつけください。
私たちは長く離れ離れになっているのではありません。じきに天国で再会し、一つに結ばれて、もう永久に別れることはありません。そして、あがない主を心ゆくまで楽しみ、力の限り主をたたえ、主の限りないあわれみをとこしえに歌うでしょう。人間的な感情があおる一切のことを捨て、神にささげるべき純粋で単純な従順と信仰の思いに素直に自分を開き、神に属するものを喜んで、しかも私たらにとって貴重なものをお取り上げになるときは一段と喜んで、自由に、速やかに神におささげしましょう。神が私たちに与えてくださったものを取り上げられるなら、それは、そのものをもっと確実な所に置き、私たちがよりいっそう望んでいるものをことごとく返してくださるためなのですから、神がなさることは万事よいのだ、と確信しましょう。
母上様ならびに家中の人々が私の死を大きな恵みとして受け取ってくださるように願いながら、このように書き連ねました。どうぞ祝福をお与えください。母上の祝福は、私がこの世の大海原を越えて希望とあこがれの港に安着できるよう導いてくれることでしょう。終わりに、母上にささげるべき愛と深い尊敬を心からお送りし、重ねて母上の祝福を願い上げつつ、筆をおきます。

祈願
主なる神よ、あなたは
私たちの目に光を与え、
私たちの誕生を望まれました。
暗黒のためではなく、死のためでもなく、
心を尽くしてあなたに向かって生きるために、
私たちを創造されました。
それゆえ、あわれみ深く私たちを導き、
善と命とへ回心させてください。
きょうも、いつも、とこしえに。

6月24日 洗礼者聖ヨハネの誕生

洗礼者聖ヨハネの誕生    神の証しびと

(トマス・アクイナス)

証しするためには適性がなければなりません。証しびとが無能であれば、どのような方法で遣わされても、その証しは不十分でしょう。ところで、ある人をこのような使命を果たしうる者とするのは、神の恵みです。「私が今日の私であるのは神の恵みによる」と聖パウロは言っています。
「私たちを新約の奉仕者にしてくださったのは主です」。ですから、福音記者が先駆者の名前によってその能力を示唆しているのは適切なことです。「その名はヨハネ」と言うのは、彼には恵みがあった、という意味です。この名前は気軽につけられたものではなく。誕生以前から神の命今によって定められていたものです。「その名をヨハネとつけなさい」と天使はザカリアに言いました。ヨハネ自身も、「主は私を母の胎内から召された」というイザヤの言葉を自分に当てはめることができます。
すべての彼造物は、いわば神の善さの証しですから、万物は神の証しを立てるために造られています。創造の偉大さは神の全能と力をそれなりに証しし、創造の美は神の知恵を証ししています。ある人々は神から特別の使命を受けています。彼らは、存在しているという事実によって自然的に神を証しするだけでなく、さらに、みずから善業によって霊的にも神を証ししています。聖人はみな、神の証しびとです。なぜなら彼らの善業は、キリストの勧めに従って、人々の前で神に栄光を帰すからです。「あなたがたの光を人々の前で輝かしなさい。あなたがたの善業を見て、人々が天におられる父をほめたたえるために」。けれども、神の賜物を受け、神の恵みによって善業を行なうだけで満足しない人々は、これらの賜物をことばや激励や勧告によって他の人に伝えるものであり、この人たちこそ、特別に神の証しびとです。ヨハネは、こうした証しびとの一人です。彼は、神の賜物を広め、神への賛美を告げるために来たのです。
ヨハネのこの使命、証しびとの役割は、たぐいなく偉大です。というのも、だれも、ある現実に参与する度合いに応じてしか、それを証しできないからです。イエズスは、「私たちは自分の知っていることを話し、見たことを証しする」と言っておられます。
神の真理を証しするということは、この真理を知っていることを前提とします。したがって、キリストもこの証しびとの役割を担っておられました。「わたしは真理を証しするためにこの世に来、この世に生まれた」。しかし、キリストとヨハネはこの役割を異なった方法で果たしていました。キリストは、この光をみずからのうちに有しておられた、というより、キリスト自身が光であられました。ところが、ヨハネはそれに参与していただけです。また、キリストは完全な証しをされ、真理を余すところなく表わされました。これに対し、ヨハネと他の聖人たちは、この真理を自分が受けた度合いに応じて証ししたにすぎません。
ここにヨハネの最高の使命があります。それは、神の光にあずかり、また、ご自分の使命を全うされたキリストに似た者となることでもありました。

祈願
全能の神よ、あなたの民が洗礼者聖ヨハネの呼びかけに
耳を傾け、救いの道を歩むようにさせてください。
聖人が告げた救い主、私たちの主イエズス・キリストに、
私たちも出会うことができますように。

6月28日  聖イレネオ

聖イレネオ  生ける神

(イレネウス)

神の輝きは生命を与えますから、神を見る人は命にあずかるでしょう。それゆえ、捉ええず、不可解で不可視なかたが、人々に見られ、理解され、捉えられるためにご自分を差し出されたのです。それは、そのかたを捉え、見る人々を生かしてくださるためです。なぜなら、そのかたの偉大さが測り知れないのと同様、そのいつくしみもまた、言い表わせず、このいつくしみのゆえに神は、ご自分を見えるものとされ、神を見る人々に命を与えてくださるからです。生命なしに生きることは不可能であり、神への参与なしに生命はありません。そして、この神への参与は、神を見ることと、神の善さを享受することにあります。
したがって、人間はこのように神を見、神に到達することにより不滅な者となって生きるために、神を見るでしょう。これが預言者たちによって象徴的に告げられたことです。つまり、聖霊を宿し、絶えず神の来臨を待ち望む人々は神を見るのです。モーセも『申命記』のなかで、「その日、私たちは見るであろう。神が人に語られ、人は生きるからである」と述べています。
万人において万事を行なわれるかたの能力と偉大さは、このかたに造られたどんな存在の目にも見えず、ことばにも表わしえません。にもかかわらず、神は、これら被造存在である人間に全く知られていないわけではありません。なぜなら、「だれも神を見た者はない。父のふところにいる独り子だけが父を知らせた」と主も仰せになったように、万物を包含し、あらゆるものに存在を与える父なる神が唯一であられることを、すべての人はみことばである御子から教えていただいたからです。
こうして、御子は最初から御父とともにおられますから、最初から私たちに御父を知らせてくださいます。すなわち、預言的な展望、種々の恵み、奉仕の務め、御父への称賛といったすべてを、見事に作曲された妙なる旋律のように折々に、人々に役立つよう、彼らの前に繰り広げていかれました。
そういうわけで、みことばは人々の益となるよう、御父の恵みの分配者となられました。そして、人々に神を示し、神には人々を示し、人々のためにこれほど大きな神秘を成就されました。が、人々が御父をないがしろにせず、絶えず御父に向かって進歩していくように、御父の不可視性をそのままにしておかれました。しかし同時に、御父は多くの秘義によって、人々にとって神を見えるかたとされました。それは、神の全き欠如は人間の実存まで失わせるおそれがあるからです。なぜなら、神の栄光とは生ける人間のことであり、人間の命は神を見ることだからです。すでに命を与えたのであれば、みことばによる御父の顕現は、神を見る人々にどれほど多くの命をもたらすことでしょう。

祈願
主よ、聖イレネオ司教は
あなたの恵みによって正しい教えを伝え、
教会の平和を守るために命をささげました。
聖人の取り次ぎを求める私たちも、信仰と愛に強められ、
平和と一致のために尽くすことができますように。

6月29日  聖ペトロと聖パウロ

聖ペトロと聖パウロ   主よ、だれのもとに行きましょう

(ジョン・ヘンリー・ニューマンの説教)

罪びとから聖人をつくるために神が予告された方法は、これです。神は、罪びとをあるがままに捉え、その自我を方向転換させられます。彼の愛情を新しい目的に向けさせ、天的な愛を注いで肉的な愛の火を消してしまわれるのです。神は罪びとを、本能に働かされ、外的刺激に左右される、自由意志のない非理性的彼造物として扱ったり、強弱の差こそあれ、どんな快楽でも同様に受けとめる者とみなしたりはされません。神の恵みの勝利は、人間の心の内面に入り、納得させ、その心を変容させて、ご自分のものとされることにあります。神は、最初に人間に与えられた精神構造を全面的に尊重されます。人間を人として扱い、人間にみずからの行動方法を選ぶ自由を残し、人間のすべての能力と機能・理性・倫理感覚・良心に訴えられます。
また人間に恐れとともに愛を目ざめさせられ、神のあわれみと同様、罪のもたらす害を悟らされます。しかし最後には、新しい命を生み支える生命の原動力が愛の炎であることを教えられるのです。
弟子たちが舟にいて、主が岸辺から彼らに話しかけられたとき、「弟子たちは、それがイエズスだとはわからなかった」のです。そのあと、「イエズスの愛されたあの弟子がペトロに『主だ』と言いました」。なぜなら、「心の清い人は神を見る」からです。すると、とたんにシモン・ペトロは愛のすばやさで、少しでも早く主のもとに行こうとして、「上着をまとうと、湖に飛び込みました」。ヨハネは見、ペトロは行動します。
ペトロの心はキリストの現存だけで燃え上がり、それ行け、と主のもとに馳せ参じます。これ以前にも、主が水の上を歩いて来られるのを見たとき、ペトロが、まず、第一にとった行動は、舟を放って置いて、大急ぎでキリストのところに行くことでした。「主よ、ほんとうにあなたでしたら、『水の上を歩いてこい』と私に命じてください」。さらに、ペトロがあの大きな罪を犯したとき、イエズスのもとに戻っていくのに、イエズスのまなざしだけで十分でした。「主はふり返ってペトロをごらんになった。ペトロは主の言われたことを思い出し、外に出て激しく泣いた」とあります。別の機会には、多くの弟子が去っていったとき、イエズスは十二人に向かい、「あなたたちも離れるつもりか」とお尋ねになりました。するとペトロは、「主よ、私たちはだれのもとに行きましょう。あなたは永遠の命のことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の子キリストであることを信じ、また知っています」と答えました。

祈願
主よ、聖ペトロ、聖パウロ両使徒の祈りによって
私たちが助けられますように。
両便徒に与えられた恵みは教会の基礎を固めました。
両使徒の取り次ぎによって、
救いに必要な助けを私たちにお与えください。