5月3日  聖フィリポと聖ヤコブ

聖フィリポと聖ヤコブ
《キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜びなさい》
宣教には神への細やかな忠実さが要求される。宣教を決意する動機について、真の識別が必要である。 フランシスコ・サビエルは、日本に向かう準備をしている神学生たちにあてて(1549年11月5日付〔鹿児島発、ゴアの全会員あて〕)、道を歩むように、と諭す。
宣教者の霊的現実主義
(フランシスコ・ハビエール)

深い謙遜の徳を身につけるように励んでください。自分の実力を知るため、神から与えられたすべての力を尽くして内的に自己を知るように努めてください。なぜなら、自分への不信頼から神への信頼、まことの信頼が生まれるからです。この道によって内的な謙遜の徳が得られるでしょう。そして、この徳はどこでも必要なものですが、とくにこの国〔日本〕では、みなさんの想像以上に必要なのです。
あなたがたについて良い意見を耳にしても、自分を恥じ入らせる意見以外は、取り上げないよう用心してください。どうか自分にかかわる一切のことにおいて、自分の能力や知識、また人間的見解に頼らず、自己を全く神にゆだねきってください。このようにすれば、あなたがたは将来降りかかる霊肉いずれの試練に対しても準備のできた人だ、と言えます。
みなさんが今までに経験した最大の苦労さえも、日本に来られてから遭遇するはずの苦難に比べれば、取るに足りないものです。
この地方に来る人々は、自分が何者かを十分に試されることを覚悟すべきです。このようなことを言うのは、神への奉仕がつらいとか、主の軛(くびき)が軽くも甘くもないとか、思っていただきたいからではありません。なぜなら、もし、人が神を探求し、そのために必要な手段を選びとるなら、神に仕えることに深い慰めと甘美さとを見いだし、克己に際して感じるあらゆる嫌気も忍びやすいものとなるからです。
敵〔なる悪霊〕が、あなたがたのうちのある人々を不安にさせ、今いる場所以外の地に行けば、神への奉仕のために困難な大事業ができるだろう、と夢想させているのではないか、と私は憂慮しています。これは、神に仕えたいと切望している多くの人が受ける明白な、ありふれた誘惑です。どうかこの誘惑に対して抵抗してください。というのも、こうした誘惑は霊にとっても完徳にとっても有害であり、前進を阻み、霊の無味乾燥とすさみをもたらして退歩させてしまうからです。熱心には、というよりも、誘惑には、いろいろの種類があるものです。たとえば、信心と救霊熱の美名のもとに、小さな十字架から逃れようとして、あれこれ手を尽くし工夫をこらす人があります。それは、従順によって命じられたことを果たして自己意志を放棄しようとはせず、もっと大きなことをしたいと思っているからです。彼らは、小事をなす徳にも欠けている者は大事をなす徳はなおさら不足することを、考えてもみないのです。そして、わずかな自己放棄と貧弱な霊の力で困難な人事に直面することになると、はじめて自分の今までの熱心は誘惑にすぎなかったことを知り、自分の弱さを認識するのです。
コインブラ(ポルトガルの都市)から当地に来る会員のうちには、こういった熱心にかられている人がいるのではないか、と私は恐れています。こういう人は海上で嵐にあうと、こんな航海をするよりコインブラの修友(修道院の仲間)たちといっしょにいたほうがよかった、と考えるかもしれません。ですから、熱心のなかにはインドに到着しないうちに雲散霧消してしまうものもあるわけです。
さらにインドに着いた人たちはといえば、不信仰の人たちの間で働きはじめ、大きな困難に直面すると、心の土台がしっかりしていない限り、その熱心はさめてしまうのです。そして、身はインドにありながら、心はポルトガルにある、ということになります。あなたがたの場合にも同様なことが起きたでしょう。
未熟な熱心がどんな結果を招くかを、また深い根を持たない熱心がどれほど危険であるかを、考えてみてください。このようなことを書き送っても、至難な大事業に乗り出そうとするあなたがたの気概をくじくつもりではありません。ただ、みなさんが小事において偉大な者であることを示し、誘惑を知ることと自己認識とによって長足の進歩を遂げ、ひたすら神により頼む者となっていただきたいからにほかなりません。この信頼の道にとどまっていれば、あなたがたは謙遜の徳にも、内的生活にも絶えず成長し、どこにいても平和で確信に満ち、人々のうちに豊かな実りを結ばせる人となるにちがいありません。

祈願
主よ、フィリポとヤコブ両使徒の祈りによって、
私たちもキリストの死と復活にあずかり、
あなたの栄光を仰ぎ見ることができますように。