5月14日  聖マチア

《あなたの宝のあるところに心もある》
神の国の根本的要請
(イブ・ド・モンシュイユ)

聖マチア  この宝と真珠のたとえ話は、神の国の最も深い要請の一つを明らかにします。神の国とは、単に私たちの個人生活に付け足されて、私たちの考えや行動の大部分を占めているにすぎないものではありません。神の国についての心遣いは、私たちの全生活を支配するとき、はじめて本ものとなるのです。神の国は絶対なものであり、より多くとかより少なくといった程度問題ではすまされません。神の国は、人が半分だけ所有しているとか、いくぶんかかわりのあるもの、などではないのです。人は神の国のために一切を投げ捨てたとき、はじめてこれを所有します。隠れた宝を見つけた人は待ち物をすべて売り払おうとし、かけがえのない真珠を得たいと思う人は、すべての持ち物を売り払いに行きます。言い換えれば、キリスト者生活は根本からして、分かたれることを知らず、一切とかかわるときに本ものとなるのです。これが他のすべての生き方と異なるキリスト者生活の特徴です。知的生活、審美的生活、社会的生活は適度に配合されます。が、宗教的生活はそうはいきません。宗教的生活は他の生活を排除するものではありませんが、別の秩序に属するものであり、他の生活と同列に置かれえないのです。宗数的生活は全人間をとらえ、他の生き方にまで浸透しなければなりません。この生活がすべての領域に浸透しない限り、真の宗数的生活はありえないのです。もちろん、この生活が存在の全体に浸透した人が仮にいるとすれば、その人はもう完全さに達した人です。しかし、私たちも知っているとおり、地上では完全さは達成しえないものです。ただ完全性に最大限に近づくことで、私たちは幸福と思うでしょう。とはいえ、根本的な方向づけにおいては、妥協の余地のないことを心得ておかなければなりません。
神に排他性とみえるものがありますが、それは人間の排他主義とは異なります。神は、ある被造物のように、存在世界に一つの場を占め、みずからの実存によって他のすべての実在を排斥してしまうようなものではありません。神の現存は、人間的なものを閉め出すことなく、人間に浸透して彼を変容させます。ところが、その人間としては、神の現存が自己の存在全体に浸み込むよう開け渡さなければなりません。いわば、自己脱却が必要なのです。神の現存は、その排他的な要請にもかかわらず、創造界のすべて――ただし罪に汚されていない被造物――と両立しえます。しかしそれには、万物が一新されなければなりません。そして万物は聖霊の降臨によって一新されるのです。私たちは、神が私たちの存在のすみずみまで浸透されて、自己のうちに何ものも有さなくなったときにしか、神を所有しえないのです。したがって、神を所有するためには、つまり神の国に入るためには、他のあらゆる事物を、そのもの自体のために捨て去らなければなりません。あの真珠、あの宝のために、私たちは一切を売らなければならないのです。これは、行動ではまだ、いくらか容易に思えますが、より高次の生活形態、すなわち、知的生活とか審美的生活の場合には、はるかにむずかしくなってきます。また、ヒューマニズムの問題も出てきます。つまり、人間はみずからのために人間を捨て去ることなしに神を見いだせるだろうか、という問題です。神の浸透していない人間的な豊かさは、実際には神を遠ざけています。最良のものが最悪のものになってしまいます。こうして、排他的ヒューマニズムを、はばからず生きるようになり、人間的豊かさをどこまでも享受すれば、たった一つの真珠を得る機会を逃してしまいます。神の代わりに人間を礼拝するのです。神の国とは、他のあらゆるものを放棄しない限り得ることのできないものなのです。

祈願
主よ、あなたの子らが福音の真理を大胆に証しし、
彼らによって教会が世界建設に参加することができますように。