5月1日 聖ヨセフ勤労者

聖ヨセフ勤労者  《まことにあなたは隠れた神》

ヨセフよ、沈黙をわれらに(ポール・クローデル)

道具をしまい、一目の仕事を終えるころ、
カルメル山からヨルダン川まで、麦畑に夜のとばりが下り、イスラエルが眠りに入るとき、ヨセフは、かつて少年だったころ、迫る夕闇に読みつづけられなくなったときのように、
ほっと一息つくと、深いあこがれをもって神との語らいに入る。ヨセフは知恵を選んだ。そして知恵は彼を伴い、彼と契りを結ぶ。露のおりる時刻の大地のように、彼は黙している。豊かな夜のしじまに、喜びと真理にあふれて幸いなヨセフ。マリアはヨセフのものとなり、彼はマリアを何くれとなくいたわる。自分が独りではない、と一朝一タで悟れたわけではない。しかし今や、賢く父らしい心のすみずみまで、一人の女性に占められている。もう一度、エワとともに楽園にいるのだ!だれもがあこがれるあの顔が、優しく素直にヨセフに振り向く。ヨセフはマリアとともに、マリアは御父とともにいる。
そして私たちも彼らとともにいる。人間理性を超えたみわざをされる神がとどまられるように、と。
神の光が私たちのともす火で、神のことばが私たちの立てる騒音で、かき消されることがないように。人が消えゆき、み国が来るよう、み旨が行なわれるように。私たちも深い悦楽をもって原始の幸いを再び見いだせるように。海が凪となるように、そして、最良の部分を選んで古いイスラエルの逆らいを終わらせたかた、マリアが働き始められるように、と。
内面の人、太祖ヨセフよ、沈黙を私たちに得させてください。

祈願
主よ、私たちをあなたのみ声と沈黙に和す者とし、
あなたの平和のことばである御子、イエズス・キリストを私たちに
聞かせてください。

5月3日  聖フィリポと聖ヤコブ

聖フィリポと聖ヤコブ
《キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜びなさい》
宣教には神への細やかな忠実さが要求される。宣教を決意する動機について、真の識別が必要である。 フランシスコ・サビエルは、日本に向かう準備をしている神学生たちにあてて(1549年11月5日付〔鹿児島発、ゴアの全会員あて〕)、道を歩むように、と諭す。
宣教者の霊的現実主義
(フランシスコ・ハビエール)

深い謙遜の徳を身につけるように励んでください。自分の実力を知るため、神から与えられたすべての力を尽くして内的に自己を知るように努めてください。なぜなら、自分への不信頼から神への信頼、まことの信頼が生まれるからです。この道によって内的な謙遜の徳が得られるでしょう。そして、この徳はどこでも必要なものですが、とくにこの国〔日本〕では、みなさんの想像以上に必要なのです。
あなたがたについて良い意見を耳にしても、自分を恥じ入らせる意見以外は、取り上げないよう用心してください。どうか自分にかかわる一切のことにおいて、自分の能力や知識、また人間的見解に頼らず、自己を全く神にゆだねきってください。このようにすれば、あなたがたは将来降りかかる霊肉いずれの試練に対しても準備のできた人だ、と言えます。
みなさんが今までに経験した最大の苦労さえも、日本に来られてから遭遇するはずの苦難に比べれば、取るに足りないものです。
この地方に来る人々は、自分が何者かを十分に試されることを覚悟すべきです。このようなことを言うのは、神への奉仕がつらいとか、主の軛(くびき)が軽くも甘くもないとか、思っていただきたいからではありません。なぜなら、もし、人が神を探求し、そのために必要な手段を選びとるなら、神に仕えることに深い慰めと甘美さとを見いだし、克己に際して感じるあらゆる嫌気も忍びやすいものとなるからです。
敵〔なる悪霊〕が、あなたがたのうちのある人々を不安にさせ、今いる場所以外の地に行けば、神への奉仕のために困難な大事業ができるだろう、と夢想させているのではないか、と私は憂慮しています。これは、神に仕えたいと切望している多くの人が受ける明白な、ありふれた誘惑です。どうかこの誘惑に対して抵抗してください。というのも、こうした誘惑は霊にとっても完徳にとっても有害であり、前進を阻み、霊の無味乾燥とすさみをもたらして退歩させてしまうからです。熱心には、というよりも、誘惑には、いろいろの種類があるものです。たとえば、信心と救霊熱の美名のもとに、小さな十字架から逃れようとして、あれこれ手を尽くし工夫をこらす人があります。それは、従順によって命じられたことを果たして自己意志を放棄しようとはせず、もっと大きなことをしたいと思っているからです。彼らは、小事をなす徳にも欠けている者は大事をなす徳はなおさら不足することを、考えてもみないのです。そして、わずかな自己放棄と貧弱な霊の力で困難な人事に直面することになると、はじめて自分の今までの熱心は誘惑にすぎなかったことを知り、自分の弱さを認識するのです。
コインブラ(ポルトガルの都市)から当地に来る会員のうちには、こういった熱心にかられている人がいるのではないか、と私は恐れています。こういう人は海上で嵐にあうと、こんな航海をするよりコインブラの修友(修道院の仲間)たちといっしょにいたほうがよかった、と考えるかもしれません。ですから、熱心のなかにはインドに到着しないうちに雲散霧消してしまうものもあるわけです。
さらにインドに着いた人たちはといえば、不信仰の人たちの間で働きはじめ、大きな困難に直面すると、心の土台がしっかりしていない限り、その熱心はさめてしまうのです。そして、身はインドにありながら、心はポルトガルにある、ということになります。あなたがたの場合にも同様なことが起きたでしょう。
未熟な熱心がどんな結果を招くかを、また深い根を持たない熱心がどれほど危険であるかを、考えてみてください。このようなことを書き送っても、至難な大事業に乗り出そうとするあなたがたの気概をくじくつもりではありません。ただ、みなさんが小事において偉大な者であることを示し、誘惑を知ることと自己認識とによって長足の進歩を遂げ、ひたすら神により頼む者となっていただきたいからにほかなりません。この信頼の道にとどまっていれば、あなたがたは謙遜の徳にも、内的生活にも絶えず成長し、どこにいても平和で確信に満ち、人々のうちに豊かな実りを結ばせる人となるにちがいありません。

祈願
主よ、フィリポとヤコブ両使徒の祈りによって、
私たちもキリストの死と復活にあずかり、
あなたの栄光を仰ぎ見ることができますように。

5月14日  聖マチア

《あなたの宝のあるところに心もある》
神の国の根本的要請
(イブ・ド・モンシュイユ)

聖マチア  この宝と真珠のたとえ話は、神の国の最も深い要請の一つを明らかにします。神の国とは、単に私たちの個人生活に付け足されて、私たちの考えや行動の大部分を占めているにすぎないものではありません。神の国についての心遣いは、私たちの全生活を支配するとき、はじめて本ものとなるのです。神の国は絶対なものであり、より多くとかより少なくといった程度問題ではすまされません。神の国は、人が半分だけ所有しているとか、いくぶんかかわりのあるもの、などではないのです。人は神の国のために一切を投げ捨てたとき、はじめてこれを所有します。隠れた宝を見つけた人は待ち物をすべて売り払おうとし、かけがえのない真珠を得たいと思う人は、すべての持ち物を売り払いに行きます。言い換えれば、キリスト者生活は根本からして、分かたれることを知らず、一切とかかわるときに本ものとなるのです。これが他のすべての生き方と異なるキリスト者生活の特徴です。知的生活、審美的生活、社会的生活は適度に配合されます。が、宗教的生活はそうはいきません。宗教的生活は他の生活を排除するものではありませんが、別の秩序に属するものであり、他の生活と同列に置かれえないのです。宗数的生活は全人間をとらえ、他の生き方にまで浸透しなければなりません。この生活がすべての領域に浸透しない限り、真の宗数的生活はありえないのです。もちろん、この生活が存在の全体に浸透した人が仮にいるとすれば、その人はもう完全さに達した人です。しかし、私たちも知っているとおり、地上では完全さは達成しえないものです。ただ完全性に最大限に近づくことで、私たちは幸福と思うでしょう。とはいえ、根本的な方向づけにおいては、妥協の余地のないことを心得ておかなければなりません。
神に排他性とみえるものがありますが、それは人間の排他主義とは異なります。神は、ある被造物のように、存在世界に一つの場を占め、みずからの実存によって他のすべての実在を排斥してしまうようなものではありません。神の現存は、人間的なものを閉め出すことなく、人間に浸透して彼を変容させます。ところが、その人間としては、神の現存が自己の存在全体に浸み込むよう開け渡さなければなりません。いわば、自己脱却が必要なのです。神の現存は、その排他的な要請にもかかわらず、創造界のすべて――ただし罪に汚されていない被造物――と両立しえます。しかしそれには、万物が一新されなければなりません。そして万物は聖霊の降臨によって一新されるのです。私たちは、神が私たちの存在のすみずみまで浸透されて、自己のうちに何ものも有さなくなったときにしか、神を所有しえないのです。したがって、神を所有するためには、つまり神の国に入るためには、他のあらゆる事物を、そのもの自体のために捨て去らなければなりません。あの真珠、あの宝のために、私たちは一切を売らなければならないのです。これは、行動ではまだ、いくらか容易に思えますが、より高次の生活形態、すなわち、知的生活とか審美的生活の場合には、はるかにむずかしくなってきます。また、ヒューマニズムの問題も出てきます。つまり、人間はみずからのために人間を捨て去ることなしに神を見いだせるだろうか、という問題です。神の浸透していない人間的な豊かさは、実際には神を遠ざけています。最良のものが最悪のものになってしまいます。こうして、排他的ヒューマニズムを、はばからず生きるようになり、人間的豊かさをどこまでも享受すれば、たった一つの真珠を得る機会を逃してしまいます。神の代わりに人間を礼拝するのです。神の国とは、他のあらゆるものを放棄しない限り得ることのできないものなのです。

祈願
主よ、あなたの子らが福音の真理を大胆に証しし、
彼らによって教会が世界建設に参加することができますように。

5月30日  聖ジャンヌ・ダルク

聖ジャンヌ・ダルク

《わたしのために自分の命を失う人は、それを見いだす》

ジャンヌ調書から

(ジャンヌ・ダルクの弁論と最後のことば)

私の父の名はジャック・ダルク、母の名はイザベルと申します。
私は、家ではジャネットと呼ばれておりました。フランスに来てからは、ジャンヌと呼ばれております。およそ十九歳になります。
私はドムレミ村の教会で、たしか、ジャン・ミネ師から洗礼を受けました。
「主の祈り」と「めでたし」と「信仰宣言」は母から習いました。母以外の人からは、私の信仰について教わったことがありません。
大きくなって物心がついてからは、家畜の世話をしませんでしたが、牧場に連れていく手伝いはしました。
神様のご命令がなければ、私はフランスに参りませんでした。神様のお言いつけですから、そのとおりにしなければならない、と思いました。たとえ父親が百人、母親が百人いたとしても、たとえ王女様であったとしても、やっぱり私は出発したことでしょう。
私の軍旗は白色で、白い麻布製でした。それには「イエズス、マリア」のみ名が書いてありました。私は、自分の剣よりも、この軍旗のほうが四十倍も好きでした。
私は進撃するとき、人を殺さずにすむようにと、この旗をささげていきました。私は、一人も殺しませんでした。
この間の復活祭の週に、ムランの堤防の上にいたとき、あの声がして、「聖ヨハネ祭の前に捕らえられることになる」と言われました。そして、「驚いてはならない。すべてを喜んで引き受けるように。神が助けてくださる」と言われました。
それからまた、「何でも快く引き受けなさい。殉教を恐れてはならない。おまえは終わりには天国に行く」と言われました。
いとも優しい神様、あなたの聖なるご受難をたたえてお願いいたします。もし私を愛してくださいますなら、この教会のかたがたに何とお答えしたらよいのか、お教えください。
〈質問〉―――「あなたは、神の恵みに浴しているかどうかわかるか」。  もし私が恵みのうちにおりませんでしたら、神様が恵みを与えてくださいますように。もし恵みのうちにおりましたら、神様が守ってくださいます。神の恵みのうちにいないことがわかりましたら、私はそれこそ世界中でいちばんの不幸者でしょう!
神様にこのことをすっかりお任せいたします。
〈質問〉―――「われらの地上の教会、教皇、枢機卿、司教と他の高位聖職者に従う身であることを信じていないのか」。
もちろん信じます。私たちの主にこそ、まずお仕えすべきです。
そのことを私の裁き主であられる天地の王にお任せします。
また、神様と教皇様とに嘆願いたします。
ジャン神父様、それが私の死に方ですか。
火で焼かれるより七度も斬首されるほうがましです。 赦しの秘跡と聖体の秘跡をお授けください。
いいえ、いいえ、私は異端者でも離散者でもありません。良いキリスト者です。
イエズス、イエズス……

祈願
主よ、聖ヨハンナ(ジャンヌ)・ダルクの祝日にあたって祈ります。  私たちも、すべてのうちに、すべてを超えてあなたを愛し、主の栄光をたたえて生きることができますように。

5月31日  聖母の訪問

聖母マリアの訪問
《主が私にしてくださったことを
みな話しますから、お聞きなさい》

聖母の訪問(ポール・クローデル)
ヘブロンの祭司で、ヨハネの父、ザカリアは、今日の牧師かギリシャ正教の司祭のような人でした。祭司は妻帯を許されていましたから。きっと彼の家の裏にもささやかな庭があり、かぐわしい花が、ことに真夏には強く香る花々が咲き乱れていたことでしょう。そこにマリアが、山路をたどって、従姉のエリサベトに会いに行きました。エリサベトはマリアを見て、あら、と言い、マリアも、まあ、とひとこと言って会釈します。
エリサベトは、胎内の子が躍り上がったので、一目ですべてを悟りました。そして、老いた手を合わせて、「主の御母が私のところにおいでくださるとは、いったい、どうしたことでしょう」と小声で尋ねます。私もそこに居合わせて、すべてを眺めているような気がします。私は見ます、エリサベトの口が震え、涙があふれ出るのを。老いに手の届いた人々の、乏しさを知り、自己を卑下した心から湧き出る涙と、泣き笑いする顔を。エリサベトは泣いています。が、目には測り知れない喜びが浮かんでいます。洗礼者聖ヨハネの母が、私の神の御母を見つめているのです! 幸いなエリサベト!
あなたは、マリアが立って(最初のスタバトのとき)、神の永遠の知恵の歌、マグニフィカトを歌うのを聞かれます。あなたがたのように、私たちも今宵、ユダヤのこの小さな庭で、散策したいものです。すべてのカトリック者がするこのそぞろ歩きを。そして、罪に汚れた心を開き、すべてを打ち明けてから、自分の震える手のうちに、私たちの母マリアの指を感じることができますように。「恵まれたかた、マリア、主はあなたとともにおられます。あなたは祝福されたかたです」。

祈願
全能の主よ、
御独り子を宿したおとめマリアは、
聖霊に導かれて従姉のエリサベトを訪問されました。
私たちも聖霊のすすめに素直に従い、
聖母とともに、いつも賛美の歌を歌うことができますように。