4月25日  聖マルコ

聖マルコ 《それぞれが受けた恵みに応じて、互いに奉仕しなさい》
人に才知があるのも、金持ちであるのも、他人のためである。
善は分け合うために与えられた。
分かち合わない善は失われる。それはもはや善ではない。 与えることと受けること
(ヨハンネス・クリソストモスの説教)

「私たちは人から、キリストに仕えるしもべ、神の神秘の管理者とみなされるべきです。ここでさらに管理者に求められるのは、忠実であると認められることです」。
これは、主人の権利をわがものにしたり、主人にのみ帰すはずの名誉を横取りにしてはならないことを意味します。この分配者・管理者の役割には、ゆだねられたものを正直に保管し、主人に属するものを自分の所有物にしないことが含まれています。こう確信して、ことばの賜物を受けた人、財産を豊かに所有する人はみな、それらの善を自分ひとりの所有物としてではなく、聖なる委託物とみなして、決して自分一個人のために用いたり、保管したりしてはなりません。もし、あなたが高位に上げられたり、教会のなかで責任ある役務を果たしていたりするなら、高ぶってはなりません。それは、あなたの功績によるものではなく、神の賜物なのですから。その賜物を他人の持ち物として扱うべきであって、自分の身を飾る宝石にしてはなりません。自分を貧しい者とみなしなさい。あなたにもこのような賜物が与えられていますか。もしそうなら、うぬぼれてはなりません。その長所は、あなたから来るものではありません。主の慈愛が、かえってあなたを恩知らずな者にするようなことかありませんように。いただいた恵みは兄弟姉妹に分け与えなさい。自分がその恵みの主人でもあるかのように振る舞って、利己的に使い、他の人々にはけちけちと分配するようなことがあってはなりません。
人体を見ても、からだ全体に役立つものは各肢体に役立つものであり、ある肢体のためだけのものは何の役にも立ちません。目はすべての光を受け入れますが、それを全部、自分のためにため込むわけではありません。目の機能は全身を照らすことにあり、その本性からして、自己の殼に閉じこもることを全く許しません。両足は自分で歩きますが、自分だけ移動するわけではなく、運動するのは全身です。この例でもおわかりのように、みなさんにゆだねられたものを自分のためにだけ取って置かないようにしなさい。そんなことをすれば、自分の同胞に、いや、まず第一に、自分自身に害を及ぼすことになるでしょう。
以上の考察は、肢体の種々の役割について言えるばかりでなく、さらに技能に関しても同じく真実です。たとえば、鉄工労働者が自分の労働の結果を人に分け与えようとしないなら、この人はけっきょく、自分が破産するうえに、他の工業をも倒産させてしまいます。また、ほかの職人・農夫・漁師についても考えてごらんなさい。もし、この人たちが自分の労働の結果を他の人に享受させまいとすれば、他の人々に損害を与えるだけでなく、他の人を失うことによって自分自身をも失うことになります。
どこにいても与え、そして受けること。これは無数の善の原則です。人は、自分の生活に閉じこもろうとするとき、自分自身を損ない、さらに普遍的秩序をも破壊してしまいます。
ですから、自分の受けた恵みを、たくさんの人々にまき散らしなさい。

祈願
神よ、あなたは福音宣教のため聖マルコを選び、
救いの訪れを書き記す恵みをお与えになりました。
私たちも聖人のように、
キリストの道を歩む者となることができますように。

4月29日  シエナの聖カタリナ

エナの聖カタリナ  《聖霊の賜物は共同善のために各人に与えられる》

ウルバヌスⅥ世教皇への手紙(シエナのカテリナ)

甘美なるイエズス・キリストのうちに、いとも聖にして優しい教父様、私こと、イエズス・キリストのしもべたちの卑しいはしため、カタリナは、聖下が正統かつ、まことの牧者、ならびに、羊たちのかしらであられることを希望しつつ、お便りを差し上げます。
いとも聖なる教父様、聖なる教会という園に牧者たちをお置きになりますときは、名誉を求める人ではなく、神を探し求める人を起用してくださいますように。彼らがその任に就くのにとられる道は、真理であって偽りではありませんように。
いとも聖なる教父様、このようなことを進言いたす者がございましても、なにとぞご容赦なさってくださいませ。それは、父親を愛する息子が当然いたしますように、ひとえに神の誉れとあなた様の救いのためにのみ申し上げるからでございます。父が人から不正や侮辱を受けるのは、子どもにとって堪えがたいものでございます。そのようなことを子どもは絶えず警戒いたします。大家族を治める家父長でも、一人の人間としてしか見ることができないことを子どもは知っているからでございます。もし、実子たちが父の名誉や利益となることを見守らないとしましたなら、父親はしばしば人からだまされてしまうことでしょう。聖なる教父様についても同様に申せるかと存じます。
聖下は全キリスト者の父上かつ首長であられ、私ども一同は聖下の傘下におります。あなた様の権威はすべてに及びます。とはいえ、ご見識には、他の人間と同様、限りがございます。そのためにこそ、聖下の子らが、卑屈な恐れなどいささかもなく、誠実な心で、神とあなた様との誉れのため、また聖下の司牧される羊たちの救いのために有益なことを、ことごとく見極めて行なう必要があるわけでございます。
聖下がご自分に奉仕できるような補佐役を持ちたいと熱烈にお望になることを存じておりますが、そのためには忍耐深く彼らの意見をお聴きにならなければなりません。
私たちのうちに権威の一端を担わない者がいるだろうか。一介の第三会員が教皇に書き送ったこの大胆な文章(1378年7月付)は、教会における全成員の責任性の意味について、私たちに自問させるのではないだろうか。

祈願
主よ、あなたは聖カタリナを主の愛で燃やしてくださいました。私たちも一人一人、それぞれの場において、あなたの恵みをいただき、熱心と忠実を もって教会に奉仕することができますように。