3月19日  聖ヨセフ

3月19日 聖ヨセフ  《イエズスは両親とともにナザレに下り、二人に従っておられた》

忠実なしもベヨセフ
(フランソア・ド・サール)
私たちの祝うこの大聖人は、なんといつも謙虚でありつづけたことでしょう。その完全さが語り尽くされることはありません。じつに、聖ヨセフが一生の間に経験しなかった貧しさや卑しさは存在しなかったからです。そして、その貧しさと卑しさの下に、偉大な徳を覆い隠し通していました。まことに、ヨセフが愛する御子といっしょに貧しい仕事場にいて、自分にゆだねられた御子と聖母を養うために働いていたとき、天使たちが感嘆のあまり喜び躍りながら群れをなしてきて、ヨセフに見とれ、その謙遜に感じ入ったにちがいありません。聖ヨセフがダビドよりも勇敢で、ソロモンよりも賢明であったことは、疑う余地がありません。けれども、天の光に照らされた人でなければ、大工を職業とするヨセフを見て、だれがそのように判断しえたでしょうか。ヨセフは、神から恵まれたすべての賜物をそれほどに押し隠していたのです。
聖ヨセフの尊厳がどれほど高められ、ヨセフがどれほどあらゆる徳に満たされていたかを、あなたがたはお聞きです。しかし、そのうえに彼がどれほど低められ、ことばにも想像にも及ばぬほど卑しめられたかをも、目にしておられます。天使が手を取るようにして彼を導いた様子をごらんなさい。天使から、エジプトに行け、と言われれば、彼はエジプトに行き、帰国しなさい、と言われれば、帰国します。神は、彼がいつも貧しい者であるように望まれたのです。貧しくあることこそ、神が人に与えうる最大の試練の一つですが、これに対してヨセフは、愛深く服従し、つかの聞ではなく、一生の聞、貧しく暮らしました。

祈願
全能の神よ、あなたは新約時代の夜明けに、
聖ヨセフに救いの神秘の守護をゆだねられました。
教会がいつも聖人の祈りに支えられて、
救いの神秘の成就を見守ることができますように。

3月25日 神のお告げ

神のお告げ 《私はみ旨を行なうために来た》

新しい人、キリスト (第二バチカン公会議『現代世界憲章』)
実際、人間の神秘は、受肉したみことばの神秘においてでなければ、ほんとうに明らかにはならない。事実、最初の人間アダムは、未来の人間、すなわち主キリストの予型であった。最後のアダムであるキリストは、父とその愛との神秘を啓示することによって、人間を人間自身に完全に示し、人間の貴重な召命を明らかにされる。したがって、前述の諸真理がキリストのうちにその根源を見いだし、頂点に達することは、少しも不思議ではない。
「見えない神の像」であるかた自身は完全な人間であり、最初の罪以来ゆがめられていた神の似姿をアダムの子らに回復された。人間性は、キリストのなかに取り上げられたのであって、消滅したのではないから、このこと自体によって、私たちにおいても人間性は崇高な品位にまで高められたのである。事実、神の御子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させられた。キリストは人間の手をもって働き、人間の知性をもって考え、人間の意志をもって行動し、人間の心をもって愛された。彼は、おとめマリアから生まれ、真実に私たちの一人となり、罪を除いては、すべて私たちと同じであられた。
汚れない小羊であるキリストは、みずからすすんで血を流すことによって、私たちのために生命を獲得された。キリストにおいて、神は私たちをご自分と和解させ、また私たちの間に和解をもたらし、悪霊と罪との奴隷状態から私たちを救い出された。その結果、私たちは一人一人、神の御子は「私を愛し、私のためにご自分を渡された」と使徒とともに言うことができる。キリストは私たちのために苦しみを受けることによって、私たちがその跡を踏むよう模範を示されたばかりでなく、新しい道を開かれた。私たちがこの道に従うならば、生と死は聖化され、新しい意味を持つものとなる。

祈願
主よ、私たちの心に、まことの信仰を強めてください。
おとめマリアの御子が人となられた神であることを
信じる私たちも、その復活の力によって救われ、
永遠の喜びに達することができますように。