1月24日 サールの聖フランシスコ

全く神のものになりなさい  (フランソア・ド・サールの手紙)  親愛なる子よ、さまざまな世俗の事柄にこれほど煩わされながらも、私たちは全く神のものになりきるように努めましょう。そうした煩わしさのなかに、どのようにして自分の忠実さをよりよく証ししたらよいのでしょうか。悲しいことに、孤独は突然に襲われ、世には煩わしさがつきものです。が、どこにいても勇敢でなければなりません。なぜなら、神に信頼する人、御父の助けをへりくだって穏やかに懇願する人に、天の助けは至るととろに備えられているからです。
あなたの心遣いが混乱と不安になってしまわないように用心なさい。世間の波間にただよい、いろいろな煩わしさの風に吹きまくられているあなたは、いつも天を仰ぎ見、私たちの主に向かって、「神様、私が漕ぎ出し、航海しているのはあなたのためです。私の導き手とも岩ともなってください」とお言いなさい。そして、心細くならないように。私たちが港にたどり着いたときに味わう快さが、それまでに払った労苦を消し去ってくれるでしょう。ですから、まっすぐな心、良い意向、確固たる勇気を持ち、神にまなざしを向けて、神に全く信頼しきっている限り、私たちはこうした嵐のさなかにも港をめざして進んでいくのです。
この暴風雨のために、ときには胃まで少々痛んだり、めまいがしたりしても、びっくりしてはなりません。できるだけ早く、一息入れてから、元気を出してもっとよく行なうようにしましょう。あなたがいつも聖なる決心をもって歩んでいられることを、私は確信しています。ですから、家庭の多くの用事がもたらすちょっとした不安や悲しみにいらいらするには及びません。というのも、親愛なる子よ、そのように些細なことは、主から私たちに勧められたいちばん愛すべき、好ましい徳の実行を練習するのに役立つからです。そうです、良い魚が沼のよどんだ水のなかでは育たないのと同様に、ほんとうの徳は外的休息のなかでは培われないのです。イエズス万歳。

祈願
主よ、あなたは人々の救いのために
サールの聖フランシスコ司教を選び、
すべてにおいて、すべての人のしもべとなる恵みを注がれました。
聖人の模範に励まされて、私たちも人々に仕える者となり、
あなたの愛と寛容を証しすることができますように。アーメン

1月25日  聖パウロの回心

(クレルボーのベルナールの説教)  親愛なる兄弟のみなさん、きょう、諸国民の博士の回心がすべての国々で喜びのうちに祝われることは、まことに結構なことです。回心したパウロは、全世界にとって回心の使者となりました。彼は生存中、多くの人を回心させました。そして今は、もう肉体では存在していませんが、なお宣教の役務をもって、絶えず人々を主へと回心させつづけています。パウロは今や主のかたわらにあって、終わりのない喜びを主のうちで味わいながら、みずからの模範と祈りと教えとによって、いつも人々の回心のために働いています。このパウロの回心が熱心に記念されるのは、記念する人々にとって有益だからです。この記念において、罪びとは赦しの希望を抱き、償いへと促されていき、また償いを果たした人は、完全な回心の深みを見いだします。
主の弟子たちに対して脅迫と殺害しか熱望していなかったパウロが選びの器とされたことを思い見るとき、どんなに自分の犯した過ちが大きくても、だれが失望するでしょうか。
パウロのこのただ一回の回心において、あわれみの偉大さ、恵みの効力が見事に現われました。「突然、天からの光が輝き、彼を包んだ。……そのとき声が聞こえた。」とルカは言っています。じつにそれは、ヨルダン川で主の頭上に鳩のかたちが現われ、声がしたときと同様でした。また、主が山上で弟子たちの前で変容されたときも、このように光が輝き、御父の声が聞こえたのでした。
「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」。サウロは答えます。「主よ、あなたはどなたですか」。サウロは、〈自分が迫害しているかたを知らなかったからです。〉彼は何をしているのかを知らなかったために、あわれみを受けました。そこで主は、「わたしは、おまえが迫害しているナザレのイエズスである」と彼に仰せになります。わたしは、おまえが迫害しながら探している救い主、おまえが読む律法で預言されている者だ。「彼はナザレ人と呼ばれるであろう」という預言が成就したことを、おまえは知らない。
「主よ、私がどうすることをお望みですか」。兄弟よ、これこそ完全な回心の模範です。「私は心構えができています。神よ、私は心の準備が整っています」。私は少しもためらわずに、あなたの掟を守る覚悟をしています。「主よ、私がどうすることをお望みですか」。まことにこれは、簡潔でありながら充実し、生き生きとして効果的なことばであり、絶対的な信仰心にふさわしいことばです。これほどの従順を見いだすことは、まことにまれなことです。

祈願
神よ、あなたは使徒パウロの宣教によって全世界に信仰を伝えてくださいました。
きょう聖パウロの回心を祝う私たちが聖人にならって回心の道を歩み、
主の福音を世界に証しすることができますように。

1月27日 聖アンジェラ・メリチ

修道女たちへの遺言 (アンジェラ・メリチ)
自分に課された務めを果たすとき、ひたすら神への愛と人々の救いへの熱望とのみを動機としているという確信と良い心情とを、神の御助けによって獲得し、これを保つように努めなさい。あなたがたのすべての働きもすべての権威行使も、このように神と人とに対する愛にもとづいている限り、有益な、良い実しかもたらせないでしょう。なぜなら、私たちの主のみことばによれば、良い木、すなわち愛に生かされた心と精神は、聖なる善業の実しか結ぶことができないからです。それで、聖アウグスチヌスも、「愛しなさい。そうして、あなたの望むことを行ないなさい」と言われました。つまり、《愛は罪を犯しえない》と約言できる、と思います。
どうか次のことをお願いいたします。いつも、あなたがたの娘たち全員に心を配り、一人一人を心に刻み、その名前だけでなく、状態・気質・職務、その他、彼女たちにかかわるあらゆることを配慮してください。もし生きた愛をもって彼女たちを包容なさるなら、そんなにむずかしいことではないでしょう。なぜなら、母親というものは、どんなに子だくさんでも、その一人一人を心にしっかりとどめているものだからです。それは、まことの愛にかられているからです。子どもが多ければ多いほど、母親の子どもに対する心遣いは大きくなるかのようです。
まして霊的な母たちにとって、霊の愛は自然の愛に比べられないほど力強いものでありえますし、また、そうでなければなりません。ですから、あなたがたが生き生きとした愛をもってあなたがたの子どもたちを熱烈に愛されるなら、この子らをみな、しかもその一人一人を、かけがえのない者として記憶し、心にとめることができないはずはありません。
どうか、みなさんの娘たちを愛と柔和をもって、優しく導くように努めてください。命令的に、厳しく取り扱うことなく、何事においても親切にしてください。イエズス・キリストのおことばに耳を傾けてください。「わたしは心が柔和で、謙遜であるから、わたしに倣いなさい」。また、神について、「主は、力と柔和とをもって万物を処理し、支配される」とも書かれています。さらにイエズス・キリストは、「わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽い」と仰せになりましだ。したがって、あなたがたもこのように振る舞い、優しい愛情を注ぎ尽くすように努めなければなりません。まず、何事であれ、力ずくで達成したい、などと思わないように気をつけてください。神が人それぞれに自由意志を与えられ、だれに対しても無理じいすることをお望みにならないからです。神はただ、語りかけ、招き、勧めをお与えになるのです。

祈願
いつくしみ深い主よ、
私たちのために絶えずとりなす
聖アンジェラの祈りによってお願いします。
聖女の賢明と愛の模範に倣って、
私たちもいつをあなたの教えを守り、
日々の生活のうちにそれを証しすることができますように。

1月28日  聖トマス・アクィナス

模範かつ師である 十字架上のキリスト (トマス・アクィナス)   神のみことばが私たちのために苦しまれるのに、いったいどんな必要があったのでしょうか。それには一つの、というよりも、二重の重大な必要性があった、と言えます。その一は、罪に対するいやしを私たちに与えるため、その二は、人のなすべきことの模範を示すためでした。「いやし」と言うわけは、罪がもたらすすべての悪に対する救済を、私たちはキリストの受難のうちに見いだすからです。しかし受難は私たちにとって、模範としても同様に意味があります。キリストの受難だけで十分、私たちの全生活は形づくられるからです。完全生活を送りたいと望む者にとって、キリストが十字架上で軽んじられたものを軽んじ、キリストが望まれたものを望みさえすれば十分なのです。十字架からもたらされないような、徳の模範などはありません。
愛徳の模範を探していますか。「友だちのために命をかけるよりも大きな愛はありません」。これこそ、キリストが十字架上でなさったことです。キリストが私たちのために命をかけてくださったのなら、私たちも自分の苦痛をすべてキリストのために忍ぶのは、つらいことではないはずです。
忍耐の模範を望んでいますか。十字架上に、その完全な模範を見いだすでしょう。大きな忍耐は、二つのしるしによって認められます。すなわち、大きな苦しみを寛大に甘受することと、苦しみから逃れうるときにそうしないこと、の二つです。キリストは十字架上で非常に大きな苦しみを忍ばれました。主は、この苦しみをじっと耐え忍ばれ、「苦しみつつ、おどすことなく」、また「ほふり場に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前に黙している羊のように、口を開かなかった」のです。十字架上のキリストの忍耐は偉大でした。「それで、私たちの身に降りかかる試練を、忍耐をもって受けましょう。私たちの信仰のかしらに目を注ぎましょう。信仰を完成へと導くこのイエズスは、差し出された喜びの代わりに、十字架を忍ばれ、その辱しめを軽んじられました」。
謙遜の模範を望んでいますか。十字架を眺めなさい。神がボンティウス・ピラトゥスのもとで裁かれ、死ぬことを望まれたのです。従順の模範を望んでいますか。死に至るまで御父に従順であられたかたに従いなさい。「じつに一人の人の不従順によって多くの人が罪びととされたのと同じく、一人の人の従順によって、多くの人は正しい者とされる」のです。
地上的名誉の蔑視の模範を望んでいますか。「王の王、主の主、英知の宝を宿されるかた」に従いなさい。主は、十字架上で裸にされ、嘲笑され、辱しめられ、打たれ、茨の冠をかむらされ、にがい酢を飲まされて亡くなられました。それゆえ、主は仰せになるでしょう。「立派な衣服や富について思い煩ってはならない。『彼らはわたしの衣を分配しだ』のだから。名誉を心配してはならない。彼らはわたしをなぶりものにし、わたしを打ったのだから。品位を心配してもならない。彼らは茨の冠を編んでわたしの頭にかぶらせだのだから。楽しみに心を遣ってはならない。わたしが『渇いているとき、彼らはわだしに酢を飲ませた』のだから」と。

祈願
神よ、あなたは聖トマス・アクィナスを、
聖なる生活の追求と聖なる学問への愛とによって
感嘆すべき模範とされました。
私たちに聖人の教えを悟らせ、
その模範に倣わせてください。
イエズス・キリストによって。

1月31日  聖ヨハネ・ボスコ

キリストのような教育者  (ドン・ボスコの手紙)
何よりもまず、少年たちのまことの幸福を心にかけ、彼らが人格的な責任を十全に果たすのに適した者となるよう力を尽くしているのなら、あなだがたは、私たちに託された少年たちの、いわば両親であるということを、決して忘れてはなりません。この子らのために、私は――いや、私一個人のみならず、サレジオ会の全員が――絶えず愛情を傾けて働き、労苦をささげ、自分の司祭としての任務を果たしてきました。私は長い人生で、このことがどんなに重大であるかを納得する機会にたびたび恵まれました。怒るのは耐え忍ぶよりもたやすく、子どもをおどすのは説得するよりもやさしいことです。私たちの不忍耐や傲慢は、強情な子どもたちを断固として矯正したり、柔和に赦したりするときよりも、その子らを罰するときに、もっと悦に入る、とさえ言えます。けれども、私がみなさんに勧めるのは、回心してまもない人に対するパウロの愛です。パウロは、相手があまりに素直でなかったり彼の愛に対して鈍感であったりするのを見て、涙ながらに懇願するほどでした。
衝動的に振る舞わないよう注意してください。罰するときに、むらのない気分でいるのはむずかしいことです。が、私たちが自分の権威を誇示するだめとか憤慨にかられたために振る舞っているのだと思われないよう、心の平静・むらのなさを保つ必要があります。私たちに訓育の権限を任された息子として子どもたちを眺めましょう。まさしくイエズスのように、彼らのしもべとなりましょう。主は、命令するだめではなく、従うだめに来られました。イエズスと同様の治め方をするのを恥とせず、子どもたちにいっそうよく奉仕するためにだけ支配権を行使するようにしましょう。
イエズスが無知で粗野な使徒たちになさったのは、まさにこのとおりでした。そのうえイエズスは、使徒たちがあまり忠実でなかったときも彼らを忍び、また罪びとたちに対していつくしみと親しい友情を示されました。それで、ある人々は驚きあきれ、他の人々はつまずくほどでした。しかし他の人々は、ついに神の赦しを希望することになりました。それゆえイエズスは、心の柔和・謙遜な者であるよう、私たちに命じられたのです。

祈願
神よ、あなたは聖ヨハネ・ボスコを選び、
青少年の父、また教育者となさいました。
あなたに仕え、兄弟姉妹の救いのために尽くすことができるよう、
私たちをも同じ愛で燃やしてください。